居眠り狂四郎

天下泰平の江戸の世

 天下泰平の江戸の世に於いては人を斬ったことがない、などと云うサムライは川の蜆ほどにも珍しくはない。

経済の主力が商人の手に渡り、大坂の高利貸しの店の前では、歴乎とした大名が駕籠をとめて挨拶するほどである。お上の方でも財政難から、御家を取り潰す理由を血眼になって探していた。たとえ、相手が町人であっても無闇に刀を抜けば御咎めを受けるのは決まって武士の方であった。

 稲森四郎のように平和を愛するものにとっては、またとない時代である。    

 四郎は縁側に座り、うららかな春の陽差しで頬を温めていた。膝の上の猫の背を撫で乍ら、うつら、うつら、と舟を漕ぐ。

「天下泰平。日々平穏。何事も無事。目出度きことかな」

 

 権現さまが江戸に幕府を開かれてより、戦らしい戦といえば島原の乱ぐらいのものか。

 膝の上で気持ち良さげに居眠りをしていた猫がやおら敏捷な動きで跳ねると何かに飛びかかった。

 猫は口から血をしたたらせている。鼠だった。

 残念乍ら四郎には、この猫の万分の一の迅さもない。四郎はどうしようもない肥満体質であった。

 双つの穴から毛が見え隠れする低い鼻は頬の肉に埋没している。一重瞼の上にも厚く、重苦しく、脂ぎった肉がたっぷりのっていた。起きているのか、寝ているのか判然としない顔立ち、上を向いた鼻、丸々と肥え太った豚のような面相である。このブタにとって、唯一の愛嬌は双眸が象の目のように小さく丸いことであろうか。

 

 ところで、この四郎、他の者とは聊か異なる奇病を患っていた。

 

後世、麻雀放浪記を著し、雀聖と呼ばれた作家と同じ睡眠発作症を宿痾として抱えていたのである。万人に一人いるか、いないかという奇病である。

 居眠りの発作は、時と場所を選ばなかった。

 風呂で眠りこけたときは溺れて死にそうになるし、雪隠で熟睡してしまったときは雲古を垂れ流して袴を汚してしまう。

 

 四郎は前髪を落とす齢になっても、汚れるのを用心して袴を全部、脱がなければ雲古をできなかった。

 

 案じた亡父が名医と呼ばれる内科の医者をくまなくあたって診てもらったが、どの医者も匙を投げた。

 大枚をはたいて長崎から呼び寄せた蘭方医が、

「どうにも、なりませぬな」

 

 と言ったときの父の泣きそうな貌を四郎は今でも忘れることができない。

 この病は症状のひとつとして集中力や持久力を失う病気で、常人の四倍の疲労感がある。そのため運動に適さず、ただ寝込んでいるだけなら構わぬが、病を押して仕事なり遊びなりをしようとすると、疲労感を埋めるためにのべつ食ってばかりいなければならない。四郎の肥満は宿痾によるものであった。

 あまりにも太っているため角力取りと間違われたこともある。力士なら大名お抱えで帯刀を許されているからである。

 普通の武士なら、

「無礼者! 」

 と一喝するところであるが、この男にそれだけの胆力はない。面倒なことにならぬようにすごすごと逃げ帰ってくるだけであった。

 殺伐とした世なら、瞬く間に首を刎ねられていたであろうが、天下泰平の江戸の世に於ては、四郎のようなものでも生きていくことがそれほど難くはなかった。

 むしろ、生きることが難かったのは戦国の世なら数々の武勇伝をうちたてて「英雄」と呼ばれたであろう「暴れ者」であった。


ひげ ブログ

浪人者

仕官を求める浪人者が諸国をあまた放浪していた。剣以外は何の取得もない連中だった。

 四郎は先代に引き続き、納戸役をつとめていた。

 納戸役は城の西丸にある「勘定所」内の一間につめている。この役所は勘定奉行の支配に属し、納戸役のみが諸役の会計、計算、金品の受け渡しを行なう。こういう次第で稲森四郎は武士の子として、この世に生を受け乍らも剣術を覚えるより、

「先ず、算盤を習わねばならぬ」

 と四郎が七歳になるや、亡父によって厳しく算勘の術を教え込まれた、だけでなく剣術、馬術、四書五経を習わさせられた。いずれも評判の師匠を選んでの師事だった。

 肥満体質と宿痾のため剣術や馬術はさっぱりものにならなったが、おかげで四郎はひと通りの教養は身につけることできた。

 だが、教養を身につけることと、身につけた教養を使って何事かを為し得ることは、まったくの別物である。覚えたものを使う段になると容赦なく居眠りの発作が渠を襲った。

 算盤を弾き、小難しい金銭勘定をしているときには……。

   算盤の玉の上に顔を乗せて、挙句、顔だけずるずると滑らせ、机の角で額をぶつけて瘤をつくった。

 記録を取るため、書き物をしているときには……。

   大事な書類の上に顔を突っ伏してしまい、まだ乾ききっていない墨を顔中にくっつけた、だけならまだしも寝返りをうった拍子に墨汁を満たした硯に鼻を突っ込み、危うく窒息しそうになった。気がつくと顔中墨だらけ、特に鼻の周りには、犬のそれのようにくっきりと輪郭がついていた。

 上役に対峙したまま眠ったときには……。

   もう少しで詰め腹を切らされるところだった。

 今まで生きてこれたのが不思議なくらいである。平和な時代のおかげであろう。

 

 大樹の権威のもと百何十年も泰平の世が続いているのだから、戦に用がなくなった武士は「官僚」化しきってしまっていた。

 剣術ができないくらいのことでは、とりたてて不都合なことはない。

 ときたま、上役の拝命で道場に行かされるとき以外は  。

「はー、気が重いわ」

 今日は四郎にとって、その特別な日である。四郎は縁側から重い躯を起こした。

 つい、さっきまで四郎の膝の上に居た猫は鼠を平らげると口の周りについた血糊をぴちゃぴちゃ舐めている。前足でヒゲをこすると、再び四郎の膝の上にあがり、気持ち良さげに眠りはじめた。遠くから眺めるとブタの躯の上で猫が戯れているように見える。

「そろそろ出かけねばなるまい」

 このところ剣術指南の道場で爆発的に流行していたのが、中西一刀流から興った竹刀による打合いである。

 中西派の流儀とは防具をつけ竹刀を握り、さかんに打合うことで擬似実戦をし、古剣客の到達した奥義に至ろうとするものだ。それ以前は木刀による型だけの稽古であった。

 この小豚にとって不幸なことは、上役により通わされる池田道場が中西派の流れを組むことであった。肥え太った躯に防具をつけ、打合わねばならぬのである。

 四郎はともすれば、歩みをとめて引き返しそうになる己の脚を叱咤して、どうにか道場の前まで辿りついた。

 道場の三和土で草履を脱ぐ。

「遅いぞ、稲森! 此処へ来るまでの間に、また居眠りでもしておったか」

 脱いだ草履を揃える暇もなく、奥の方から罵声が飛んできた。大目録皆伝三段、高柳正之助の声だった。

 既に用意が整っているであろう、一座の者の嗤い声が聞こえた。四郎の到着が一番遅かったらしい。四郎はすべての挙措が亀の如く遅い。

 足を引き摺るようにして、前へ進む。

 入口で一礼して中へ入る。

摺り足ではない

 

 足を引き摺るような歩様は決して剣術で言う、摺り足で進んだのではない。これから自分の身に降りかかることを考え、臆したために自然とそうなったものである。

 納戸役の若い者、十数人は既に一列に竝び、道場の隅に侍している。

「稲森、稽古をつけてやる。早う、面籠手をつけい! 」

 高柳が四郎を睨みつけて言う。他の者を差し置いて、いきなりの指名である。

 四郎はこの高柳が、どうにも苦手であった。同じ納戸役に詰め乍ら、しょっちゅう失敗を犯す四郎とは違い、仕事も卒がなく、剣の腕前も申し分ない。おまけに眉目麗しく、切れ長の二重瞼、鼻梁の通った顔立ちは評判の歌舞伎役者よりも二枚目だった。

 齢、三十前にして既に大目録皆伝という剣の腕前もさること乍ら、その涼しげな風貌により巷間の妻女には高柳を慕うものが少なくなかった。

 ブタのような面相の四郎とはえらい違いである。

「稲森、早うせぬか」

 急かされた四郎は渋々、汗臭い面籠手をつけようとした。ところが四郎にとっては面をつけるだけでも一苦労であった。まず、頬のの肉が邪魔をして顔が入らない。

 これだけでも嘲笑の種であった。 

 どうにか面をつけても肋骨のような面鉄から肉がはみ出しそうにあふれている。

 籠手をつけるにも当然の如く、肉が邪魔をする。すったもんだしていると様子を見ていた高柳が、

「誰が前足を入れろと言った。貴様はブタか! 」

 と嘲り笑う。

 一同も追従笑いをする。

 屈辱に耐え乍ら、胴に掌を伸ばした。

 脇からはみ出た肉を掌で胴に押し込み、肩から紐をかける様は、今流行りの『寄せて上げるブラ』どころではない。

 四郎はこれだけで汗だくである。

「フン、今度は亀のようであるな」

 高柳の一言で、忍び笑いが再び道場に響く。   

 防具をつけ終えた四郎は仕方なく、一礼しておずおずと央へ進み出た。

 高柳と向かい合う形で蹲踞をする。審判をつとめるのは納戸役の朋輩、原田である。

「始めッ」の声がかかると一瞬のうちに、

 袈裟がけ

 胴薙ぎ

 そして、面に打ち込みを喰らった。明らかに一本である。

   しかし、どうしたことか原田は「一本」とは言わない。ただ、にやにやしているだけである。

 面 

 籠手

 籠手

 胴 

 面 

 打たれるたびに激しい音がする。

 四郎は一方的になぶり者にされた。

 高柳はそれでもまったく手を緩めることをしない。激しさはいよいよ増すばかりである。

 高柳はまたもや四郎の胴を取った。しかも今度は防具の少し上、胴で覆われていない生身の脇腹の肉を打擲した。

 瞬間、竹でできている胴と竹刀のぶつかり合う心地よい響きではなく、肉を打つ鈍い音がした。四郎は躯の重心を崩し、膝をついた。

 四郎の躯は今し方、打たれた脇腹を庇おうとして丸くなった。

 丸くなった四郎の背中に高柳の踵が入る。蹴とばされた四郎は丸まった躯で落石のように道場の隅まで転がった。手に握った竹刀が床に落ち、乾いた音を立てる。

 転がる四郎を追いかけ、高柳はなおも蹴りを入れ続ける。

 面、脇、腰、背、思いつくまま蹴とばし、竹刀で打擲する。

「どうじゃ、稲森! ブタが剣を握るなど十年早いわ。こうしてくれる」

 高柳の脚で四郎は仰向けにされた。

 とどめの突きを喉に喰らった。

「フン、せいせいしたわ。貴様を見ているだけで腹が立つ」

 四郎は喉の痛みで激しく咳き込んだ。泣きそうになり乍らも、唯堪えるだけである。

 審判の原田は、これを見ても何も言わない。原田も高柳の息がかかっているのだ。

 気が済んだのか高柳は踵を返し、上座にすわり、面籠手をはずした。

「次、惣一郎! 稲森と立ち合えい」   

 名指しされた惣一郎は上役の息子で、まだ前髪を残した年齢であった。

 四郎は何とか躯を起こし、央まで戻った。

 互いに蹲踞をする。

 審判の原田が、「始めッ」と言う。

 竹刀が軽く、触れ合った。

   と、そのとき宿痾の発作が襲いかかった。四郎は立ち上がることも叶わず、前のめりになって眠ってしまった。極度の緊張状態がもたらした脳の自衛本能のようなものであった。

「ぶっぶー」

「ぶっぶー」

「ぶっぶー」

 豚の啼声のような鼾である。防具をつけたまま熟睡状態に入った四郎は寝返りをうち、仰向けになった。周囲のことなどまったくお構いなしに道場の真ん中で大の字になっている。

「オイ、原田。水を持ってこい」

 高柳に言われて原田が桶に水を汲んできた。高柳は四郎の頭を脚で二、三回小突いた後、面をつけたままの四郎の顔に水をぶっかけた。

「ぶる、ぶるるるッ」

 馬のいななきのような獣じみた響きが四郎の口から漏れる。

 どうにか目を醒ました。

 むっくり、のっそりと起き上がる。

「稲森、神聖な道場を何と心得る! 」

 高柳が四郎をにらむ。

「んー、いやー、面目ない」

 寝惚けまなこで四郎は応えた。

「神聖な道場を愚弄した罰じゃ。そこで豚の真似をせいッ」

 いったい、剣の修錬と何の関係があるのか。四郎は釈然としなかったが言われた通り、渋々四つん這いになった。時折、指で鼻先を上へ向け「ぶー」とやり乍ら、爆笑する満座の中を二三周した。肥満体の四郎にとってはきつい運動である。ただ一方的に打擲された方が躯を動かさないで済むだけ、いくぶんましであった。

 四郎の息があがる。汗だくになった。

 面鉄の中の顔は、汗と涙と先刻ぶっかけられた水でぐしょ濡れだった。四郎はなるだけうつむいて道場を周り、顔を見られないようにした。顔を拭こうにも面鉄で覆われた顔は拭きようがない。

「もう良い、稲森。面籠手をはずせ」

 溜飲を下げたのか高柳が言った。

 四郎は安堵と悔しさが入り混じったような複雑な表情をして末席に座った。

 板張りの床には、したたり落ちた水が輪を描いていた。四郎が這った痕が一目で判じられる。

 四郎は濡れた防具をはずそうと、面の紐に手をかけた。水を含んだ紐はなかなかほどけない。四郎の太い指ではなおさらである。

 どうにか紐をほどいても肉がめり込んでいるため、面をはずすのも容易ならざることだった。はずすと言うよりも剥がすといった風である。自分で自分の皮膚を剥がすようなものだった。

 面をはずすと頬にはくっきりと面鉄の痕がついている。籠手をはずした腕もまた然り。胴をはずすと肉が「たぷん」と下へ向かって落ちた。

 防具をはずすと四郎の隣に座っているものが顔をしかめた。汗のしみ込んだ防具と四郎の躯そのものから異臭が漂っているのだ。

 腋臭である。   

 肩で荒い息をしている四郎の両つの脇からは、ねっとりとした脂っこい体液が流れ出していた。

 腐乱した魚のような四郎の体臭は春の風にのり、やがて道場に居合わす者の鼻孔に満遍なく行き渡った。

「オイ、ブタ。くさいぞ。禽獣の臭いがするわ」

 顔をしかめて高柳が言う。

 こんな仕打ちをされても、四郎は何ひとつとして言い返すことも適わず、ただ為されるがまま、黙っているだけであった。

 


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